「ゲンロン0」の内容をネットから推理する。
6/17の日経新聞に「ゲンロン0」(東浩紀著)という著作の書評があった。
書評を一読しても内容が良く理解できなかった。哲学書とか思想書の類なのだろう。
先般、世間を騒がせた「森友問題」にしても「加計問題」にしても、国会を見ても新聞を見てもメディアを見てもジャーナリストの書いた記事を読んでも、事実は分からない。しかし、ネットに散りばめられた断片をつなげると事実らしきものは見えてくる。あるいは、確実に事実に到達しているアカウントも数多くある。
そうした理由から、ネットに散りばめられた断片から内容を見てみたいと思った。もちろん、系統だった哲学や思想の知識がないので、普通に読んだのでは理解できないということはある。
前フリがツイッターにあった。著者自らが「ゲンロン0」の意図を書いている。
一見、相田氏が正しいことを言ってるように見える。事実として、安倍は「加計」で政治的な間違いをしており、それをスルーして「真ん中」の立場に立ちバランスを取るのは正当化されるのか。
この流れを総括して、ツイッターから異論が。
なぜこのような混乱が起きるかと言えば、森友にしても加計にしても事実が解明されていないからであり、事実が解明されれば、「真ん中」に立場が正当化されるかもしれないし、されないかもしれない。
やはり、学者であるならば、事実の解明を重視すべきではなかろうか。
しかし「ゲンロン0」には、常識的な思考を越えた地平が拡がっているのかもしれない。もう少し見てみよう。
ツイッターを少し見てみると、著者の動機らしきものは見てきた。
政権交代可能な野党が消滅したかは分からない。フランスでマクロンが出現しあっと言うまに政権交代可能な野党となってしまった。
なるほど強烈だ。
こうした知識人や市民が連帯するのが「ゲンロン」で書かれている「家族」ということか。
これは分かりやすい。こういう「家族」のイメージはいいね。
まず、階級は使えない。それは共産主義の理論とあまりに深く結びついており、そしてその理論は歴史的使命を終えているからである。土地も使えない。だれもがネットワークを介して全世界とつながることができるいま、主体の拠りどころを特定の地理的な領域に求めることには無理がある。血や遺伝子も使えない。それは人種主義への道だ。ジェンダーは粗すぎる。それは人間を数種類にしか区別しない。思想信条に基づく結社や趣味の共同体は、そもそもアイデンティティの核にならない。それらへの所属は自由意志で変更可能だからだ。自由意志に基づいた連帯は自由意志に基づきたやすく解消される。それがマルチチュードの弱点である。このように考えていくと、個人でも国家でもなく、自由意志で変更が可能ではなく、そして政治的連帯に使えそうな拡張性を備えた概念としては、もはや家族(あるいはその変種である部族やイエなど)ぐらいしか残らないのだ。
『ゲンロン0』P210より
なんとなく分かった。概念確定のモラトリアムとまでは言わない。現実を見据えるアカデミズムの世界だ。リベラルが復活する可能性が完全になくなったら読んでみよう。
もう一度、日経新聞の斉藤環氏による「ゲンロン0」の書評を確認してみよう。
しかし、答えが出ていた。
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